p.8 [1]の訳

 比叡山に正算僧都という人がいた。自分はたいそう貧しく,年の暮れに雪が深く降り積もり,訪れる人もなく,ただもう人がだれも住んでいないような様子のときもあった。京の都には母である人がいるが,便りをしていなかったので(今,便りをするのが)かえって辛くて,ことにこの様子を聞かれたくないと思っていたのだが,雪の中の心細さを想像したのだろうか,(母から)心のこもった便りがあった。雪深い嶺の住まいの寂しさなど,ふだんより細やか(な心遺い)で(書かれ),ちょっとしたものをお送りになった。
 (僧都は)思いもよらないことで,たいそうめったにないことだとしみじみと感じる。中でも,この使いの男が,たそう寒そうに深い雪をかき分けて来たのが気の毒だったので,まず火などをたいて,この男が持参してきたものを与えて食べさせる。(使いの男が)さあ食べようとして,箸を立て,ぽろぽろと涙をこぼして食べられなくなったのを(僧都は)たいそう不審に思い,理由を聞いた。(使いの男が)答えて言うには,「この(僧都の母上が)お贈りくださったものは,いいかげんなやりかたで手に入れたものではないのです。母御前が御自身の御髪の先を切って人にお与えになり,その代償を,無理をなさって(あなたに)差し上げなさったのです。今これをいただこうといたしまして,その愛情の何とも言えない情け深さを思い出し,(私は)いやしい者ではございますが,大層悲しくて胸がいっぱいになって,どうにも喉に通らないのです」と言った。これを聞いて,(僧都もどうして)いい加減に思うはずがあろうか。しばらく涙を流したということだ。
戻る

富士教育