高校入試分野別モギテスト国語〈古典〉口語訳

高校入試分野別モギテスト国語〈古典〉(ISBN978482905384)の問題文の口語訳を載せてあります。参考にしてください。

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p.2〜17  p.18〜29  p.30〜41  p.42〜47

p.2 [1]の訳
 大変のどかな日に,仲のよい者どうしがいっしょに歩いていく大通りで,つばめがあちらこちらに飛びかって,ふと(自分の着物の)袖の下をくぐって行った。手でもとらえられそうで,まことに趣き深いものだ。雨が降ったあとがまだ乾かない土の上につばめが降りていて,(巣を作る)どろを口にくわえながら,子供が走ってきたのに驚いて,遠くへかけて行くのも趣きがあるものだ。家のはりに巣を作って,いつの間にか生まれた多くのひなが,飛んで来る親を待って,口をいっぱいに開いては,鳴きさわいでいる様子は,この上もなくかわいい。

p.4 [1]の訳
 曾呂利新左衛門は知恵がよくまわって巧みな言い方をする人である。太閤秀吉殿下があるとき家来にお向かいになって,「世の中で恐ろしいものは何であろうか」とおっしゃった。「殿下こそおそろしいものの頂点にいらっしゃいる」と一同が申し上げると,曾呂利が言うことには,「御前様ほど恐くない方はおりません。手柄を立てればごほうびをくださり,まちがった行いをすれば正してくださいます。よいことも悪いことも自分が理解していれば,殿下は恐ろしいお方ではございません。それなのに,殿下を世の中で恐い方というのは,殿下というお方を理解できない者なのでございます」と申し上げると,(太閤秀吉殿下は)おおいにお笑いになり,家来どもはあっと口を閉ざしたことである。

p.4 [2]の訳
 齋藤左衛門の尉助康が丹波国へ下向したときのことである。狩をしていて日が暮れてしまい,古い堂があって夜を明かそうと入りかけると,その辺りの詳しい事情を知る者が,「その堂には人を襲ってとり殺す妖怪が住みついているので,用心もなく気安くお泊まりになるのはいかがなものか」と言う。「何ということもない」と言って,泊まった。雪が降り風が吹いて,聞いていた通り,辺りが何とも名指しがたいような気味の悪い感じで,正面の部屋の柱によりかかっていると,庭の方から得体の知れないものが先を急ぐように来る気配がしたので,障子の破れ目からすばやくのぞいて見ると,雪が降って一面真っ白の庭に堂の軒につかえるほどの法師が黒々と立っているのが見えた。けれどもはっきりとは見えない。まもなく,障子の破れ目から毛むじゃらの細腕がのびてきて,助康の顔をなでおろした。そのとき,(助康が)さっと座り直したので,(相手は)腕を引っ込めた。その後障子の端に寄って,(助康は)身体を丸めて寝ていると,また,さっきのように手を入れてなでるので,その手を(助康は)むんずとつかまえた。(相手は)手を取られて引き戻そうとしたが,(助康は)もともと力のすぐれている者なので,強くつかまえて離さない。しばらくの間押したり返したり,負けまいと張り合っていたが,障子を引き外して母屋の外側に出た。障子をはさんで相手を下敷きにした。軒と等しい大きさに見えたのだが,障子の下敷きになるとやたらに小さい。手も細くなったので,いよいよ勢いに乗って押さえつけていると,か細い声を出してキキキキキィと泣いた。使用人を呼んで,火を打たせて明かりをつけてみると,古狸であった。明日村人たちに見せるからと,使用人にあずけたのだが,使用人は,どうしようもないことに焼いて食ってしまった。次の日起きて尋ねると,頭だけを残していたのだった。しかたなくその頭を村人に見せた。この後は,この堂にて,人が捕まえられて食われることはなくなったということだ。

p.6 [1]の訳
 ある時,日の神と月の神が雷神を伴って旅をしていた。雷神は道中ごろごろと鳴り渡って騒々しかったので,宿についてから,日の神と月の神が密かに相談して,雷神がまだ寝ているのを幸いに明け方早くに旅立った。しばらくして雷神が目を覚まし,朝飯を持ってきた女に尋ねると,「これこれこのような次第です(月と日はもう出発しました)」と言うのを聞いて,「月日の経つのは早いものだと」言ったことである。

p.7 [2]の訳
 ある山寺の坊主はけちで欲張りであったが,飴を作ってただ一人で食べていた。(坊主は飴を)ぬかりなく管理して,棚に置いていたのを,一人いた小さい児に食べさせないで,「これは人が食べると死ぬ物だ」と言ったのを,この児は,「なんとかして食べてみたい」と思っていたので,坊主がよそに行っている間に,棚から(飴を)取り下ろしたときに,ちょっとこぼして,小袖にも髪にもつけてしまった。ふだん欲しいと思っていたので,二,三杯たらふく食べて,坊主の秘蔵の水瓶を,軒先の雨の落ちてあたる石に打ち当てて,割っておいた。坊主が帰ったところ,この児がさめざめと泣いている。「どうして泣くのだ」と尋ねると,「大切な御水瓶を,誤って割ってしまったときに,どれほどのご処罰があるであろうかと,情けなく思われて,この命生きていてもしかたがないと思って,人が食べれば死ぬとおしゃっておられた物を,一杯食べても死なず,二,三杯まで食べましたがさっぱり死にません。ついには小袖につけ,髪につけてみましたが,まだ死にません」と言った。飴は食べられて,(そのうえ)水瓶は割られてしまった。けちの坊主は得るところがない。児の知恵がはなはだしく勝っていたということである。

p.8 [1]の訳
 比叡山に正算僧都という人がいた。自分はたいそう貧しく,年の暮れに雪が深く降り積もり,訪れる人もなく,ただもう人がだれも住んでいないような様子のときもあった。京の都には母である人がいるが,便りをしていなかったので(今,便りをするのが)かえって辛くて,ことにこの様子を聞かれたくないと思っていたのだが,雪の中の心細さを想像したのだろうか,(母から)心のこもった便りがあった。雪深い嶺の住まいの寂しさなど,ふだんより細やか(な心遺い)で(書かれ),ちょっとしたものをお送りになった。
 (僧都は)思いもよらないことで,たいそうめったにないことだとしみじみと感じる。中でも,この使いの男が,たそう寒そうに深い雪をかき分けて来たのが気の毒だったので,まず火などをたいて,この男が持参してきたものを与えて食べさせる。(使いの男が)さあ食べようとして,箸を立て,ぽろぽろと涙をこぼして食べられなくなったのを(僧都は)たいそう不審に思い,理由を聞いた。(使いの男が)答えて言うには,「この(僧都の母上が)お贈りくださったものは,いいかげんなやりかたで手に入れたものではないのです。母御前が御自身の御髪の先を切って人にお与えになり,その代償を,無理をなさって(あなたに)差し上げなさったのです。今これをいただこうといたしまして,その愛情の何とも言えない情け深さを思い出し,(私は)いやしい者ではございますが,大層悲しくて胸がいっぱいになって,どうにも喉に通らないのです」と言った。これを聞いて,(僧都もどうして)いい加減に思うはずがあろうか。しばらく涙を流したということだ。

p.9 [2]の訳
 今となっては,昔のことであるが,中国に,荘子という人がいた。家がたいへん貧しくて,今日の食べ物がなくなってしまった。隣に監河侯という人がいた。その人の所へ(行って)今日食べるための粟を恵んでほしいと言った。河侯が言うには「もう五日たってからおいでください。千両の金が入るはずです。それをさしあげましょう。どうして(あなたのような)尊い人に,今日召しあがるだけの粟をさしあげられましょうか。(そんなことをしたら)全く私の恥になります」と言うので,荘子が答えて「昨日道を通っていたら,うしろから呼びかける声がした。ふり返ったがだれもいない。ただ車の輪の跡のくぼんだ所にたまっている少しの水に,鮒が一匹ばたばたしている。どうした鮒だろうと思って,そばに行ってみると,少しばかりの水に,とても大きな鮒がいる。『どうした鮒か』と聞くと,鮒が言うには,『私は河伯神の使いで,江湖へ行くのである。それが飛びそこなって,この溝に落ち込んだのである。喉がかわいて死にそうである。私を助けてほしいと思って,呼んだのである』と言う。(そこで私が)答えて言ったのは,『私はあと二三日したら,江湖という所に遊びに行くことになっている。(だからその時ついでに)そこに持っていって放してやろう』と言ったら,魚の言うには『とてもそれまで待てないだろう。ぜひ今日水入れ一つの水で,喉を潤してくれ』と言ったので,そのようにして助けてやった。鮒の言ったことは,わが身が体験してわかった。とても今日の命は物を食べなかったら,生きられない。あと(になって)の千両の金など何の役にも立たない」と言った。それから「後の千金」という言葉が評判になった。

p.10 [1]の訳
 ある僧が,「私は生まれてから現在まで,腹を立てたことがない」と言った。(しかし)ある人がそのことを信じない。(そして)「人間はだれでも,『どん欲,怒り,愚かしさ』の三つの欠点から逃れられないものだ。腹を立てない人間はいないものなのだ」と言うと,「まったく腹を立てないのです」というのを,なお信じないで,「(それは)本当とは思われない。うそだと思う」と言われて,「(腹など)立たないと言えば,立たないのだ」と言って,顔を赤くして叱りつけたということだ。

p.11 [2]の訳
 ある人が座敷を建てて絵を描かせる(ことになった)。白さぎ一種類(の絵)を希望した。絵かきは承知したといって焼筆で下絵を描いた。主人の言うことには,「どれもいいようだが,この白さぎの飛び上がったのは,羽のつかい方がこのようでは飛ぶことができまい」と言う。絵かきは答えて「いやいやこの飛ぶ姿が(この絵の)最もすばらしいところだ」と言っている最中,本物の白さぎが四五羽むらがって飛んだ。主人はこれを見て,「あれをごらんなさい。あのように描いてほしいのだ」と言うと,絵かきはそれを見て,「いやいやあの羽のつかい方では,私が描いたようには飛ぶことはとてもできまい」と言った。

p.12 [1]の訳
 昔からの賢人なども,故郷は,忘れ難いものに思われるということである。ましてや私の今は,四十歳の初老の歳も四年も過ぎて,何ごとにつけても昔懐かしいままに,兄弟たちの大変年老いているのも,そのままにして置くことができなくて,初冬の空がしぐれる頃から江戸を立って,雪の降る日や霜を置く寒い日を何日も旅を重ねて,やっと12月の末,伊賀の山中の故郷に着いた。なお父母が生きておられたならと,私を慈しんでいただいた昔を懐かしく思うと悲しく,いろいろと思うことが多くあって,
「故郷というのは,とても恋しく懐かしいものである。自分のへその緒を見せられ,亡き父母の事が恋しく思い泣く四十四歳の年の暮れなのである」

p.13 [2]の訳
 今ではもう昔の話であるが,阿蘇の何がしという史があった。背丈は低かったが,肝っ玉はなかなかのくせものであったということだ。家は西の京にあったが,(ある日)公務があって宮中に参上して,夜が更けて家に帰ろうとしたところ,(内裏の)東の御門から出て,牛車に乗って東大宮大路を南に下って進ませて行ったのであるが,(なぜか)着ていた装束をみな脱いで,片っ端からみな畳んで,車の敷物の下にきちんと置いて,その上に(再び)敷物を敷くと,史は冠をかぶり下沓だけを履いて,裸になって車の中に座っていた。
 そうして,二条大路から西の方へ(牛車を)進ませていくと,美福門のあたりを通り過ぎる頃に,盗人が脇の方からばらばらと出てきた。(盗人たちは)車の轅に取り付いて,牛飼童を打ち据えたので,童は牛を棄てて逃げてしまった。牛車の後ろに二,三人いた下男も,みな逃げ去ってしまった。盗人が近寄って来て,車の簾を引き開けて見ると,裸で史が座っていたので,盗人は驚きあきれたことだと思って,「これはどうしたことだ」と尋ねると,「東の大宮大路でこのように(裸に)なってしまった。君達が寄って来て,私の装束をみなお取りになってしまいました」と笏を手に持って,高貴な人にでも申し上げるようにかしこまって答えたので,盗人は笑って(裸の史を)うち捨てて去ってしまった。その後,史が声を上げて牛飼童を呼んだところ,みな出て来た。そこから家に帰ったのだった。
 さて,(家に戻った史が)妻にこのことを語ったところ,妻が言うには「あなたは,盗人にもまさった心(の持ち主)でいらっしゃいますね」と言って笑った。本当にたいそう恐るべき心(の持ち主)である。装束をみな脱いで隠し置いて,そんなふうに(盗人に)言ってやろうと思った心の準備は,まったく(並みの)人が思い付くようなことではない。
 この史は,とくに優れた口達者であったので,このように言ったのであろう,という話である。

p.14 [1]の訳
 あるとき紀貫之が夜中に和泉の国を通っていたが,乗っていた馬が釘付けになり,進むことも退くこともできなくなった。道を行く人が,「この場所にいらっしゃいます神様のしわざです」と申し上げたので,貫之はすぐ馬を下り,「いったい何の神とおっしゃるのですか」と問うと,その人は「蟻通しの神です」と言うので,貫之は
「雨雲が幾重にも重なった夜中なので,星があるなんて思わなかったし,蟻通の神がいるなんて,思いもしませんでした」
と詠んだので,貫之の馬はたちまち起き上がりふだんよりも勝った足の速い良馬となったのだった。
この蟻通し明神は和泉の国に鎮座していたが,宮の前を人が通るときには馬から下りることを求め,守らないものに対しては厳しいとがめだてをすることで有名だった。

p.15 [2]の訳
 宇治殿(藤原頼通のこと)が,四条の大納言卿(藤原公任のこと)と,春秋の花でどれが勝っているかを論じられた。「春はさくらを第一とする。秋は菊を第一とする」と,宇治殿がおっしゃったので,大納言が,「梅の花がございますからには,桜の花が第一というのはいかがでございましょうか」と申し上げると,梅と桜との議論になり,そのほかの花の優劣は後回しになった。大納言は,おそれをなして,強くは主張は申されなかったものの,「やはり春の早朝に咲く紅梅の優美な色合いは捨てがいたいものがあります」と申し上げたのは,殊勝なことでございました。

p.16 [2]の訳
 金子十郎家忠は,まっ先に進んで戦った。矢もみな射尽くし,弓も折れて捨てた。太刀も折れ,折れた太刀だけをひっさげて,ああ,味方がいてほしいものだ,太刀をもらいたいものだと思っているところに,足立右馬允遠元が出てくる。「ご覧ください,足立殿。太刀が折れてしまいました。代わりの太刀がありましたらお与えください」と言う。「代わりの太刀はないけれども,あなたのお願いが感心なので」と,先頭を馬で進ませていた家来の太刀を取って,金子に与えた。(家忠は)大いに喜んで,敵を数多くうちとってしまった。(太刀を取られた)足立の家来が申し上げるには,「日頃の心をご覧になって,何の役にも立ちそうにないものだとお思いになったからこそ,このようないくさの中で太刀をお取りになったのでしょう。お供をして何になりましょう」と,主を恨んで別れてしまった。足立は,「しばらく待て。言うことがある」と言って,駆け出した。敵の一騎が出てきたので,自分も名乗らず,相手にも名乗らせずに,弓を十分に引き絞ってぴゅっと射ると,(矢が)かぶとの内側にしっかりと突き刺さった。(敵が)馬から落ちたので,自分も馬から飛び降り,敵の太刀を取って引き返し,家来に並んで「お前はせっかちに恨んだことだ。それ,太刀だ」と言って取らせ,前方へ駆けて行かれた。

p.17 [2]の訳
 桜は咲き初めた花からして人の心もうきうきとさせ,昨日が暮れ,今日が暮れて(日がたち)どこもかしこも花の咲きそろった頃は,(その桜の花の中で)花をつけない木々の梢さえも美しく,日が暮れてしまうと,また明日も見に来ようと(心に)決めておくのであるが,(その日が)雨が降ったりするのは残念なことである。やがて春も終わりになってゆくと,(桜の花が)すっかり散り尽くしてしまう世のありさまを見てきたが,また来る(桜の咲く)春を心だのみにするのもはかないものである。あるいは遠い山の桜,青葉がくれの遅咲きの桜,若葉にまじる桜など,(桜は咲く時期や場所などによって)風情がそれぞれ一様ではない。桜はあらゆる花にすぐれたもので,昔から今日まですべての人を風雅の道に誘うはたらきをしている。

p.18 [1]の訳
 ある僧が,鮎の白干しを紙に包んで,それを「剃刀」と名をつけて,人に隠しておいて,食べていた。年若い弟子の法師が(その事を知って),何かよい機会があったら言いたいと思っていたところ,(ある時)主人(であるその僧)と一緒に川を渡るときに,鮎が川の中に見えたので,「ご主人様,生きた剃刀が見えます。御足を,おけがなさいませんように」と言った。

p.19 [2]の訳
 元啓という者がいた。(彼が)十一歳のとき,父はその妻の言葉に従い,年とった(自分の)親を山に捨てようとした。元啓は一生懸命に忠告したのであるが,その考えを入れず,元啓と二人で,間に合わせに手輿を作って,(その手輿に親を)乗せて深山の中に捨てた。元啓が「この輿を持ち帰ろう」と言うのに,父が「もう必要がない,捨てなさい」と言うので,「お父さんの年とったとき,またこれに乗せて捨てようとするためです」と言った。すると父は(はっと)気がついて,「私が父を捨てようとすることは,本当にいけないことであった。(私の子も,私のしたことを)学んで,私を捨てることがあるだろう。(子も)いけないことをしてしまうだろう」と思い返して,父をいっしょに連れて帰り,孝行した。
 このことが世間に知られて,父を教え,祖父を助けた孝行の者であるとして(人々は)孝孫と(元啓を)呼ぶようになった。

p.20 [1]の訳
 三条中納言某卿は人なみはずれた大食だった。そのためにたいそう肥え太って,夏などになると大儀そうになさっていた。六月の頃,医師を呼んで,「このように体が苦しいのを,どのように治療したらよかろうか」などと言って,食事する様子も詳しく話したので,医師は(もっともらしく)うなずいて言ったことには,「いかにも(おっしゃる通り)この御肥満は,そのせいでありましょう。良薬もいろいろありますが,まず朝夕召し上がる御飯を,いつもより少しお控えなさいまして,この頃は暑いときでもありますので,水づけにした飯をときどき召し上がって,空腹を満たすようになさいませ」と治療法を述べたので,(三条中納言は)「なるほどそのようにしてみよう」と言い,(それで)医者は帰った。
 さて(数日たって)ある時,水飯を食う様子を見せようと言って,さきの医師をまた呼んだので,(医師は)やって来た。まず銀の鉢の,直径五十センチほどあるのに,水飯をうず高く盛って,同じ銀製のさじをさして,(それを)若い侍が一人重そうに持って来て前に置いた。もう一人が鮎の酢づけを,五,六十ほど尾頭を圧して平らにして,それも銀の鉢に盛って置いた。「何ともたいへんな分量だな,自分にもごちそうする食物だろうか」と医師が思っているうちに,また若い侍が一人,台の上に大きな銀の器を二つ置いて,中納言の前に置く。この二つの器に水飯を入れて,酢づけをそのまま(中納言の)前に押しやると,(中納言は)この水飯を(さじで)二かきばかり口の中へかき入れて,酢づけを一つ,二つずついっしょにして一口で食ってしまった。このようにすることを七,八回もくり返すと鉢にあった水飯も鮎の酢づけもすっかり空になってしまった。医師はこれを見て,「いくら水飯でもこのように召し上がりなさったのでは」とだけ言って,すぐに(中納言の邸から)逃げ出してしまったとかいうことである。

p.21 [2]の訳
 白河院の御治世のとき,宮中の九重の搭の飾りの金物を牛の皮で作ったということが,世間のうわさになって,その修繕をした人,定綱朝臣は処罰されるだろうといわれていた。院は仏師の何とかという人を呼んで,
「はっきりと本当か嘘か見とどけて,ありのままに報告せよ」
とおっしゃったので,仏師は承知して搭に昇ったのであるが,中程から降りてきて,涙を流して顔色を変えて,
「我が身が無事であるからこそ,ご主人にお仕え申せるのです。(昇っている途中で)恐ろしくなって,(たとえ昇っても)本当か偽物か見分けることができそうにありません」
と,言い終わらないで震えていた。
 君は,それをお聞きになって,お笑いになられて,格別のご処置もなく,ことは済んでしまった。
 当時の人は,たいへんおろかなことだとこの話について言っていたのであるが,顕隆卿はそれを聞いて,
「その仏師は,きっと神仏の加護があるだろう。定綱朝臣が処罰されるようにする(自分の)罪を悟って,自分が馬鹿になった,これは一通りではない心遣いだ」
といって,おほめになった。
 全く,(この仏師は)長い間,院にお仕え申しあげて何ごともなかったのである。

p.22の訳
 春は,あけぼのの頃がよい。だんだんに白くなっていく山に接する空のあたりが,少し明るくなり,紫がかった雲が細くたなびいているのがよい。
 夏は,夜がよい。月のある頃はもちろん,月のない夜でもやはり,螢がたくさん飛びかっているのがよい。また,ほんの一つか二つ,ほのかに光って通り過ぎるのも,風情がある。雨など降るのも,趣きがある。
 秋は,夕暮れがよい。夕日があたりに光をまき散らしながら,もう山の頂きに落ちかかろうとする頃,からすがねぐらへ帰ろうとして,三羽四羽,二羽三羽などと,帰りを急ぐ姿までもしみじみと風情がある。ましてや雁などが連なって飛んでいるのが小さく見えている様は,とても趣き深い。日が沈んでしまって,(聞こえてくる)風の音,虫の音など,またいいようもなくすばらしい。
 冬は,朝早い頃がよい。雪が降ったのはいうまでもない。霜がとても白いのも,またそうでなくても,とても寒いのに,火を急いでつけて,炭を運んで行く姿も,とても似つかわしい。昼になって,寒さがゆるんでくると,火桶の火も,白い灰が多くなってしまい,よい感じがしない。

p.24 [1]の訳
 かわいらしいもの 瓜に描いた幼児の顔。ねずみの鳴き声をまねてチュウチュウ言うと,雀の子が,ピョンピョンはねて寄って来る。二つ三つほどの幼児が,急いで這って来る途中に,ほんの小さいちりのあったのを目ざとく見つけて,たいそう愛らしいかっこうの指につまんで,大人などに見せたのは,とてもかわいらしい。おかっぱ頭の幼女が,目に髪のかぶさっているのを,手でかき上げたりもしないで,頭をかしげて何かを見ているのも,かわいらしい。

p.24 [2]の訳
 四月の末か,五月の一日の頃,橘の葉が濃くつやつやと青い中に,花が真白に咲いているのが,雨の降った翌朝などにしっとりと濡れている風情は,世にまたとないおくゆかしい美しさである。その香り高い花の中から,実がまるで黄金の玉のように色あざやかにのぞいている趣きなど,世にもてはやされている,朝露に濡れた朝ぼらけの桜の美しさにも劣らない。その上,ほととぎすがその身を寄せる木と思うからであろうか,やはり全く言葉も及ばないすばらしさである。

p.25 [2]の訳
 うれしいもの まだ読んだことのない物語の一の巻を読んで,とても続きを見たいとばかり思っていて,その残りを見ることのできたとき。ところがさて,がっかりする場合もある。
 高貴な方の御前に女房たちが大勢控えているとき,昔あったことであれ,今お聞きになったこと,あるいは世間でうわさしていることであれ,お話になるとき,(そのお方が)自分に視線を合わせてお話しになるのは,とてもうれしい。
 遠い所はもちろんのこと,同じ都の中でも離れていて,自分にとってだいじに思う人が病気をしているのを聞いて,様子はどうかと,見舞もできないことをやきもき嘆いているとき,全快したということを人伝てに聞くのも,とてもうれしいことである。
 愛する人が,人にほめられ,高貴なお方などが,みどころのある者とほめておっしゃるとき。
 何かの折(詠んだ歌),あるいは人とやりとりした歌が,評判になって,(だれかの)打聞(歌などを書き留めるメモ帳)などに書き入れられるとき。自分のこととしてはまだそんな経験はないけれども,それでも,想像してこれは書く。

p.27 [2]の訳
 有名な木のぼりの名人と言われた男が,人をさしずして,高い木に登らせて梢を切らせたときに,たいへん危なく見えた間は何も言わないで,降りるときに,軒の高さぐらいになって,「失敗するな。注意して降りなさい」と,言葉をかけましたところ,「このぐら(の高さ)になっては,飛び降りてもきっと降りられるでしょう。どうしてそんなことを言うのですか」と申し上げましたところ,「いや,そのことでござますよ。目がくらくらして,枝が(折れそうで)危ない間は,自分自身が恐れておりますので,申し上げません。失敗は易しいところになって,必ずしでかすものです」と言う。
 いやしい,身分の低い者ではあるが,聖人の教えに合っている。蹴鞠でも,難しいところをうまく蹴りあげた後で,簡単だと思えば,(蹴りそこなって)必ず落ちるとか申すそうであります。

p.29 [1]の訳
 八つになった年に,父に尋ねて,「仏とは,どんなものですか」と言った。父が答えて,「仏には人がなったのだ」と言った。また尋ねて,「人はどのようにして仏になるのでしょうか」と聞いた。父はまた,「仏の教えによってなるのである」と答えた。そこで,また尋ねて,「その教えた仏を,何が教えましたか」と聞いた。父はまた,「それもまた,前の仏の教えによって,仏におなりになったのである」と答えた。そこで,また尋ねて「その教え始めなさった最初の仏は,どういう仏でしたか」と言うとき,父は,「空から降って来たのだろうか,土から湧いて来たのだろうか」と言って,笑った。

p.29 [2]の訳
 たいした用件がなくて人のもとへ行くのは,よくないことである。用件があって行ったとしても,それが済んだら,さっさと帰るべきだ。長居しているのは,とてもうっとうしい。
 他人と対していると,言葉数が多くなり,からだも疲れ,心も平静でなくなる。いろいろの用事にさしつかえが出て時間をむだにするのは,互いの利益にならない。いやそうに客に向かって話すのも,よくない。気のりしないときは,かえって,そのわけを言ってしまった方がよい。ただ,こちらも相手と同じ気持ちで対座したいと思うような人が,所在なくて,「もうしばらくおいで下さい。今日はゆっくり落ちついて話し合いましょう」などと言う場合は,この限りではないだろう。あの阮籍が,好きな客には青い目つきで迎えたということは,だれにでもありそうなことである。
 これという用件もないのに,人がやってきて,のんびりと物語をして帰るのは,とてもよいことだ。また,便りも,「長らくご無沙汰しておりましたので」などぐらいに書いてよこしたのは,とてもうれしいものである。

p.30 の訳
 月日は永遠の旅客であり,来ては過ぎる年もまた旅人である。(船頭となって)舟の上に一生を浮かべる者,(馬子となって)馬のくつわをとりながら老いを迎える者は,毎日が旅であり旅を自らの生活の場所としている。(西行・宗祇・李白・杜甫など風雅の)先人も多くが旅の途上で死んでいる。私もいつの頃からか,ちぎれ雲を吹き飛ばす風に誘われて,あてどのない旅に出たい気持ちを抑えられず,海のほとりをさすらい,去年の秋,隅田川のほとりにあるもとのあばら家に戻り,古巣を払いのけたりなどしている内にその年も暮れ,春の空に霞が立ちこめるようになると,白河の関を越えたいと思い,(気持ちを急き立てる)そぞろ神がついて狂おしい心境になり,道祖神の招きにあい,取るものも手に付かず,ももひきの破れを繕い,笠の紐をつけかえ,足を健脚にするという三里のツボに灸を据えるなど(旅の支度を)するうちに,まずは松島の月の風情が心に浮かんできて抑えられず,今まで住んでいた庵は人に譲って,弟子の杉風の別荘に移つるに際し,
「この住み慣れた草庵も,娘がいてひな祭りを家族で祝う新しいあるじに住み替わることになった。それに対して自分はあてどのない旅に出ようとしている」

p.32 [1]の訳
 (藤原)三代の栄華もわずか一睡の夢と過ぎ,(今は廃墟と化した)大門の跡は一里ほど手前に残っている。秀衡の(館の)跡は田や野原となってしまって,金鶏山ばかりが(昔の)姿をとどめている。まず高館にのぼると,(視界に飛び込んでくる)北上川は,南部地方から流れて来る大河である。衣川は和泉が城をとりまくように流れ,(この)高館の下で北上川に合流している。泰衡等の(いた屋敷の)古い跡は,衣が関を前に置いて,南部方面からの入口をしっかりと固め,蝦夷(の侵入)を防いだものと見てとれる。それにしても,えりすぐった忠義の武士たちが,(この高館に)たてこもり,功名をたてたが,それも一時のことで,その跡はただの草むらとなってしまった。「国は荒廃しても山河だけは昔に変らず残り,廃墟となった城にも春がくると,草木だけは昔通りに青々としている」と(いう杜甫の詩を思い出して),笠を横に置いて腰をおろし,時のたつのも忘れて,(懐旧の)涙を流したことだった。
「今はただ夏草だけが茫々と生い茂るばかりだが,ここは,かつて義経主従や藤原一族の者たちが功名・栄華を夢見たところである。すべてが一睡の夢と過ぎてしまった」

p.33 [2]の訳
 福井は三里ばかりなので,夕食後に出掛けたのであるが,夕暮れの中,道は容易に進まない。この地に等裁という俗世を離れて静かな暮らしをしている隠者がいる。いつの年であったか,江戸に来て私の家を訪ねてきたことがある。はるか十年以上も前のことである。どれくらい老い衰えていることか,それとも死んでしまったろうかと,人に聞いてみると,まだ元気でどこそこに(住んでいる)と教えてくれた。町中のひっそりと引っ込んだところで,粗末な家に夕顔やへちまが絡んで,鶏頭や箒木が生い茂って入り口の戸を隠している。ここに違いないと思って門を叩くと,みすぼらしい女が出てきて,どちらから来たお坊さんでしょう。主人はこの近くのどこどこというところに参っております。ご用があるならそちらへお尋ねください」と言う。等裁の妻であると知れた。昔物語でこんな情趣があったなあと思いながら,その場所を訪ねて再会し,二晩泊まったあと,名月は敦賀の港で見ようと旅立った。等裁もともに送って行こうと,裾を面白い格好にからげて,道案内をしましょうと浮かれた様子だった。

p.34 [1]の訳
 寛平の歌合わせの折に「初雁」という題を,紀友則が
「春霞のかすむかなたに飛び去っていった雁が今鳴いているようだ。この秋霧が立ちこめた空の上で」
と詠んだ。
 友則は左の組であったが,初めの五文字を詠み始めたとき,(秋のものである「初雁」を詠むのに「春霞」と詠み出したので,)右方の人々は残らず笑った。そうして,次の句で,「かすみていにし」と言ったときには,声一つ出なくなってしまったのだった。聞き終わらないうちに大騒ぎして笑うことは,あってはならないことだ。

p.35 [2]の訳
 能因入道が,伊予の守・実綱に伴って,任地の伊予国に下ったのであるが,夏の初めに日照りが長く続いて,民の嘆きは深く,神は和歌に心動かされなさるものである。ためしに歌を詠んで,三島の神にさしあげるのがよい,ということを,国司の実綱がしきりに(能因に)勧めたので,
「天の川の水を,苗代のための水として,せきを切って流してください。神は『天くだり』なさったはずですから,さあ,神よ,神ならば,『雨くだる』ようになさってください」
と詠んだ歌を,神にささげる幣帛(へいはく)に書いて,神主にたのんで,神に申し上げたところ,乾ききっていた空が急にいちめんに曇って,大雨が降って,枯れていた稲葉がすべて青々した色に戻ったのであった。

p.36 [1]の訳
 天皇のお出ましを待つ間,人々が集まっていていろいろな話をしていると,少将の内侍が坪庭の楓の木を見やって,「この楓に今年まっ先に紅葉した葉が今は散り失せてしまったわ」と言ったのを,頭の中将が聞いて,「それはどの方角の枝にございましたのでしょうか」と,梢を見上げたので,人々も皆注意して見ると,蔵人永継がその場ですぐに,「西の枝でございましょう」と申し上げたのを,右の中将実忠が,この言葉に感動して,「この頃は,これくらいのことも気転をきかせてさっと言い出す人がめったにいないのに,すばらしいことですね」と言って,ため息をつくと,人々は皆おもしろがって,みんな感嘆したことであった。まったくさっと言い出したのも,また,聞いて心にとめたのも大変勝っていらっしゃいます。古今和歌集に, 「同じ木の枝であるのに特に西の方の木の葉が早く紅葉するのは,西こそ秋のはじめだからである」 とございますのを,思いついて言ったのであろう。

p.36 [2]の訳
 十七日,月を隠している雲がなくなって,夜明け前の月夜のようすがとても美しいので,出航して漕ぎ進んだ。このとき,雲の上も海の底も,月が同じように照り輝いている。なるほどなあ,昔の男は,「棹はつきさす波の上の月を。船はおさえつけて進む海のうちの天を」と言ったのであろう。(これは私が,)聞きかじりに聞いたのである。また,ある人が詠んだ歌は,
「水底に映った月の上を漕いで行く船の棹にからむのは,月に生えているという桂のようである」 これを聞いて,別の人がまた詠んだのは,
「海に映っている月の姿を見ると,波の底にある空を漕ぎ渡る私こそ心細いものだ」

p.38 [1]の訳
 ふと見ると寝台の前に月の光りが(白く)反射している。
(そのまっ白い輝きは,最初は)地面に降った霜かと疑われるほどだった。
(やがて月の光とわかり)頭をあげて山の端にかかっている月をはるかに眺め,
(故郷のことが思い起こされて)うなだれては(しみじみと)故郷のことをしのぶのだった。

p.39 [2]の訳
A この村に桃の花のさかりの頃にやって来たら,(どこもかしこも花ばかりで)川の流れにもその花の赤色が映っているのだった。
B この村の子供らと手まりをつきながら,(のんびりと)遊びくらした今日の春の一日が,終わることなくいつまでも続いていてほしいものだ。
C 桃の花はかすみのように川の両岸に咲き満ちている。
春の川は濃い青色で,村をめぐって流れている。
桃の花を見ながら川の流れにそって行く。
私の(尋ねる)古い友人はこの川の東のほとりに住んでいるのである。
良寛の漢詩である。田面庵は古い友人有願和尚(うがんおしょう)の住む庵のこと。
D 川を越え,また川を越えた。
花の咲きほこるのに見とれた。
川べりの道には春風が吹いており,
知らないうちに友人の家に着いてしまった。

p.42 [1]の訳
 部下の何がしという者が町奉行になられたとき,堀田筑前守殿が「絶対に相手にならないようになさいませよ」と申し上げたが,何がしはそのときは合点がいかなかったが,訴訟を扱うようになって,始めて納得したとおっしゃられたとか。訴訟を聞くのは公務とはいえ,悪い行いと思い,不快だと思えば,必ず相手に私的な感情をさしはさんでしまうようになるものである。自分の言葉がきつくなれば,裁かれる人は恐ろしがって十分自分の意見を述べきれないで,必ず片方の意見しか聞かないようになり,裁きが公平でなくなる。相手になるなとおっしゃられたのはすぐれた格言であると,子孫にも言い置かれたということである。

p.42 [2]の訳
 丹波に出雲という所がある。出雲大社の分霊を移して,(社殿を)立派に造ってある。志太なにがしという人の支配している土地なので,秋の頃,(志太なにがしという人が)聖海上人や,その他の人も,人をたくさん誘って,「さあ,いらっしゃい,出雲を拝みに。ぼたもちでもごごちそうしましょう」と言って,みんなを連れて行ったところ,それぞれ参拝して,大いに信仰心をおこしたことだった。社の拝殿の前にすえられていた獅子・狛犬が,背を向けて,後ろ向きに立っていたので,上人はたいそう感動して,「さてもさてもすばらしい。この獅子の立ち方は,たいそう珍しい。深いわけがあるのだろう」と涙ぐんで,「何と皆さん,このすばらしいことにお目がとまりませんか,それはあんまりです」と言ったので,それぞれ不思議に思って,「本当に他と異なるなあ。都へのみやげ話にしましょう」などと言うと,上人はいっそう知りたがって,年配で分別ありげな神官を呼んで,「このお社の獅子の据え方は,きっといわれのあることでございましょう。少しお聞きしたいものです」とおっしゃったところ,「そのことでございる。いたずらな子どもたちがいたしましたことです。けしからぬことでござる」と言って,近寄って,(獅子・狛犬をもとのように)置き直して行ってしまったので,上人の感動の涙はむだになってしまった。

p.44 [1]の訳
 孫左衛門の家では,ある日梨の木のまわりに見慣れない茸がたくさん生えた。食べようか食べてはいけないかと男たちが相談しているのを聞いて,最後の代の孫左衛門は,食べない方がよいと制したが,下男の一人が,「どんな茸も水桶の中に入れておがらでよくかき回してから食べれば決してあたらない」と言うので,一同はこの言葉にしたがって家中の者全員が茸を食べた。七歳の女の子はその日外に出て遊びに夢中になって,昼飯を食べに帰るのを忘れたために助かった。突然の主人の死によって人々が動転している間に,遠い親類や近い親類の人々,あるいは,生前に貸し付けがあったと言い,あるいは約束があったと称して,家財は味噌の類までも持ち去ってしまったので,この村の創始者で財産家であったが,たちまちのうちに跡形もなくなってしまった。

p.44 [2]の訳
 源氏の兵たちは,すでに平家の舟に乗り移ったので,水手や梶取たちは,(弓で)射殺され,切り殺されて,(船の進路を)正すことはできず,舟底に倒れ伏してしまった。新中納言知盛卿は,小船に乗って御所の御舟に参上し,「世の中の情勢はいよいよ最後かと思われます。見苦しいような物などはすべて海へお入れください」と言って,船尾船首を走り回り,掃いたり,拭いたり,塵を拾い,ご自身でお掃除なされた。女房たちは,「中納言殿,戦いはどのように,どのように」と口々にお尋ねになったので,「めずらしい関東の男をごらんになれることでしょう」と言って,からからとお笑いになった。

p.45 [3]の訳
 昔の俗言(ふだんの会話に用いられる言葉)は,現代では古語である。現代の俗言は,後の世では古語である。古語は学ぶものであって,話すべきものではない。俗言は話すものであって,学ぶべきものではない。ところが,近頃万葉風というものがおこって世間の人が理解できないような言葉を使い出しているのは,がんこで道理のわからない行いである。万葉の歌も,宣命,祝詞の言葉も,その当時の人が少しも支障なく理解できるのは,その当時の俗言であるからだ。現代の歌も千年の後はそうなるだろう。

p.46 [1]の訳
 まだ宇多院がお住まいあそばしていた時分,夜中頃に,御所の西側の別棟にあった納戸風の部屋の戸を開けて,そよそよと音を立てて人が参るように宇多院はお思いになられたので,その方を御覧になったところ,正装の束帯をきちんと身に着けた人が,太刀を腰に帯び,笏を持って,柱の間二つ分程下がって,かしこまって座っていた。(宇多院が)「お前はだれだ」とお尋ねになると,(その者は)「ここのあるじである年寄りでございます」と答えた。そこで(宇多院が)「融の大臣か」とお尋ねになると,(その者は)「さようでございます」と答えた。更に「それでは何の用か」とおっしゃると,(源融は)「わが家なので住んでおりますが,院がおいでになるのが恐れ多く,気づまりでございます」と申し上げたので,(宇多院は,)「それは全くもって妙なことである。故融大臣(お前)の子孫が私に与えてくれたので,私はこうして住んでいるのである。私が無理に家を奪って居すわっているのなら,文句を言ってもよいが,礼儀もわきまえず,なぜこのように恨むのか」と,声高らかに仰ったところ,(源融の霊は)かき消すようにいなくなった。そのことを聞いた当時の人々は,「やはり帝は他とは違ってしっかりしていらっしゃるお方である。(ふつうの人は,その大臣の霊に会って,)そんなふうに毅然とした態度で,しっかりと言えるだろうか」と話したのだった。

p.47 [2]の訳
 今は昔,醍醐天皇の御代に,参議(宰相)三善清行という人がいた。その当時,中納言紀長谷雄は文章得業生であったが,清行宰相とささいなことで口論になった。清行宰相が長谷雄に対し,「無学の博士など古今を通じて聞いたこともない。思うにおぬしが初めだろう」と言った。長谷雄はこれを聞いて,一言も言い返さなかった。
 これを聞いた人は,「あれほどすぐれた学者である長谷雄を,あのように言ったとは,清行宰相は言語に絶する人物なのだ」と言ってほめたたえた。まして,長谷雄が言い返しもできなかったのだから,それが当然のことと思ったのだろうか。
 またその頃,孝言という大外記がいた。大変すぐれた学者であった。これがかの口論のいきさつを聞いて,「竜同士のかみ合いは,たとえ一方がかみ倒されたとしても,弱いわけではない。(というのは,)他の獣は竜のそばには寄りつけもしないからだ」と言った。これは,長谷雄が清行宰相にこそあのように言われもしようが,他の学者は足元にも及ばない,という意味なのだろう。これを聞いた人は,「まさにその通りだ」と言った。それゆえ,長谷雄は本当にすぐれた博士ではあるが,やはり,清行宰相には劣っていたのだろう。

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